きゃれるのお話。こっそり書くよ。

根拠がある話と、自分で考えた根拠のない話と、日記を書きます。

思考の固定化、言語化の話

きゃれるです。ちょっと聞いてよ。

 

小難しそうに見えて、単純なことを書いていきます。言語に、文字にするとニュアンスが固定化されるって話を書いていきます。

 

例えば、高校時代の放課後に夕日が教室に入り込んで、少し使い古された椅子や机が少し寂しげにうつる、昼頃はにぎわっていた空間がすっと静寂を手に入れたような空気。

 

を想像したとします。ぶっちゃけ「放課後の教室」ってだけなんですけど、これを「放課後の教室」と短く表現すると、その瞬間、普遍的な一般的なものになってしまうわけです。この人が特に表現したかったのは、あの空気感なのか、夕日のオレンジなのか、寂しさなのか。果たして、「放課後の教室」といった瞬間さまざまな要素がそぎ落とされているわけです。それ以上の広がりは、必死に言葉を足したとしても、足されたものであって、付属品としての扱いしか受けません。

 

言葉は便利ですが、あるものや様子に名前を付けた瞬間にそれはその言葉のものになってしまう。という話です。

 

さらに話をすると、言葉を使った時点でそれは例だと私は思っています。思考が先か言語が先か。など様々な議論がありますが、私は思考が先だと考えています。先ほどの教室の例を言葉にしても、いくら言葉を重ねても、体験と同程度の情報量は得られないと思っており、体験と言葉の関係性は抽象と具体と同じだと思っています。

 

そんな感じ。

今日は文章書くの上手になりたい日でした。